LOGINそれは、社会人向け無料セミナーのアルバイトだった。
説明には「就業後に話を聞くだけの簡単な副業体験モニター」と書かれていた。
当然、怪しい。
普通なら、こんな案件には手を出さない。「話を聞くだけで三千円」なんて、裏があるに決まってる。マルチ商法の勧誘か、怪しい投資セミナーか、最悪の場合は詐欺の片棒を担がされるか。
——でも私はもう、選べる立場じゃなかった。
給与だけでは、もう生活がままならないのだ。昼間の仕事に影響のない時間で、少しでも収入を増やさなければならなかった。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。
疲れている。目の下に隈がある。化粧で隠しきれないくらいの。
——27歳。もうすぐ28歳。
同年代の友達は、結婚したり、昇進したり、海外旅行に行ったりしている。SNSを開けば、キラキラした写真ばかり。
私だけが、取り残されている気がした。
でも、他人を羨んでも仕方ない。今の私にできることは、目の前の三千円を確実に手に入れることだけだ。
会社では毎日、上司の嫌味に耐えている。「天道さん、また間違えてる」「こんな簡単なこともできないの?」——そんな言葉を浴びせられながら、私は愛想笑いを浮かべるしかない。
辞めたい。何度もそう思った。
でも、辞めたところで次がない。転職活動をする余裕もない。貯金はゼロ。いや、マイナスだ。
だから私は今日も、怪しいと分かっていながら、この会場に来てしまった。
——情けない。本当に、情けない。
心の中で、自分を嘲笑う。でも、笑ったところで現実は変わらない。
◇ 会場には、スーツ姿のビジネスマン風の男たちが十数人。私のような「仕事に疲れ果てた末に藁にもすがるような顔をした人」は、ほんの数人だった。
壁際のテーブルにペットボトルの水と資料が並び、前方にはスクリーンと演壇。最前列にはスタッフらしい若い女性が数人いて、どこかで見たことがあるようなモデル風の美人が揃っていた。
——こういう綺麗どころで釣るのは、マルチやネットワークビジネス系が使う常套手段だ。
私も、見た目で彼女らに負けているとは思わない。
母譲りの目鼻立ちは、よく「綺麗」と言われる。でも、私はその言葉が嫌いだった。母は、その美貌を使って男から金を引き出すような人だったから。
私は、母のようにはなりたくない。
だから、化粧は最低限。服装も地味。男の視線を集めるような振る舞いは、意識的に避けてきた。
——そのせいで、損をしてきたことも分かっている。
でも、これだけは譲れなかった。私は、自分の力で生きていきたい。誰かに依存して、媚びを売って、そうやって生きるのは嫌だった。
だから今、こんな惨めな状況にいるのかもしれないけど。
私は壁際の席に黙って座った。
スマホの残高は昨日と変わらず、−1,042円。このバイト代が振り込まれるまでは、電車にも乗れない。
——本当に、底辺だ。
自嘲気味に笑って、スマホをポケットにしまった。
◇ 「では、お時間になりましたので、三條代表からご講演いただきます」司会がそう告げた瞬間、空気が一変した。
スーツを着た若い男がゆっくりと前に出てきた。無駄のない動作、冴えた目つき。会場の男たちがざわめいた。
三條圭——SNSでもたまに話題になる、若き財閥グループの御曹司であり副社長。投資事業部門の創業者で、業界では"人を信じないリアリスト"として知られている。
やや日本人離れした背丈と、彫刻のように整ったその風貌が、財界メディアの表紙を飾っているのを何度か見たことがある。本人で間違いない。
——でも、なんでそんな大物が、こんな場所に出てきたのだろう。
違和感を覚えながらも、私は彼から目が離せなかった。
「本日は、皆さんが期待しているような"儲かる話"はしません。私はそういう話が嫌いなので」
その声は淡々としていた。でも、その一言で部屋の空気が完全に静まった。
「私が今日話すのは、たった一つの原則です。情報を持つ者が、勝つ。それだけです」
すると彼は、投資の本質とやらを朗々と語り始めた。
「数字は嘘をつかない。でも人は、数字を"自分の都合のいいように"しか見ない」
株価を動かすのは企業の業績ではなく"人の心理"であると言い、その根拠を述べ続ける。淡々と、しかし圧倒的に論理的な言葉が並ぶ。
正直、言っていることは分かるようで、無知な私にはよく分からない。
けれど——この人の言葉は、嘘じゃない気がした。
今まで私を騙してきた人たちは、みんな「簡単に稼げる」「誰でもできる」と言っていた。甘い言葉で、私の判断力を奪っていった。
でも、この人は違う。
厳しいことを、そのまま言っている。甘い夢なんか見せない。現実を、突きつけている。
——だからこそ、信じられる気がした。
◇ 講演が終わった後、司会が質疑応答の時間を設けた。誰も手を挙げなかった。
当たり前だ。あんな完璧な論理を前にして、質問できる人なんていない。
——でも。
胸の奥で、何かが疼いた。
このまま黙って帰ったら、私は一生「聞くだけの人」だ。何も変わらない。何も掴めない。
また明日も、上司に怒鳴られて、借金の返済に追われて、狭い部屋で一人で眠る。
——それでいいの?
心の中の声が、問いかけてきた。
私の口が、勝手に開いた。
「すみません。私、少しだけ……いいですか?」
会場がざわついた。私は、自分の声が震えているのが分かった。
何やってるんだ、私。こんな場所で目立つなんて、馬鹿じゃないの。
でも、止められなかった。
「その、情報を持つ者が勝つって……それって、結局、"知ってる人だけが得をする"ってことですよね? じゃあ、何も知らない私みたいな人間は、最初から負けが決まってるんですか?」
質問というより、もはや叫びだった。
でも、それが今の私の、本音だった。
私はずっと、「知らない側」だった。詐欺に遭ったのも、騙されたのも、全部「知らなかった」から。情報を持っている人間に、いいように利用されてきた。
——それが、悔しかった。
三條圭は、私をじっと見た。そして、口の端をほんのわずかに上げた。
「君は負ける側なのかな?」
「はい……でも、負けっぱなしは嫌です」
言葉が、勝手に出てきた。
「それで、君はどうしたい?」
「何を"私が知らない"のかを"知りたい"です」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「……面白いね。君のような人間が、最も大きな利益を得る可能性がある」
「……は?」
急に何を言い出すんだ、この人は。
「無知であることは、罪に等しい。ただし、己の無知を知った者には、選択肢がある」
「……それが見えるなら、苦労はしませんよ」
「ほう、なら見せてやろうか?」
「え……?」
「彼女を後で、私のところへ案内してくれ」
三條圭は、近くにいた秘書らしき男性にそう声をかけると、軽く会釈をして会場を後にした。
——何が、起きたの?
頭が、真っ白になった。
◇ そして今、私は彼のロールス・ロイスの後部座席に並んで座っている。現実感が、ない。
深く沈み込むようなレザーシート。無音に近い走行音。香水ではない、革と木材の香り。この車には、日常の"雑音"というものが存在していなかった。
窓の外には、東京の夜景が流れている。タワーマンションの灯り、ネオン、すれ違う高級外車。
そんな光景が、まるでスクリーンのように車窓を過ぎていく。
言葉が出なかった。この空間は、自分とは無関係だった世界。
私はずっと、外から見る側だった。成功者のきらびやかな世界をスマホで眺めては、「自分には関係ない」と、現実を閉じていた。
そう、この車窓を通り過ぎていく、雑踏の光のひとつでしかなかった。
でも今、それを眺める"側"に、自分がいる。
それがたとえ、一瞬の夢だとしても。
「緊張しているのか?」
隣の席から、穏やかな声が落ちた。
「……そりゃ、まあ」
正直すぎたかもしれない。でも、嘘はつけなかった。
私は昔から、嘘が下手だ。顔に出る。声に出る。だから、取り繕うことを諦めた。
どうせバレるなら、最初から正直でいたほうがいい。
彼は、小さく笑った。
「いい反応だ。大抵の人間は、こういう場で取り繕おうとする」
取り繕う余裕なんて、私にはなかった。スマホのバッテリーも、口座残高も、今にも尽きようとしている。いや、残高はすでにマイナスだ。
三條圭はスーツの内ポケットから、黒革の封筒を取り出した。しっとりとした手の動き。すべてが無駄なく、計算されているように見えた。
その中から、一枚のカードを取り出し、私に手渡した。
それは、彼の財閥が運営する証券会社のメンバーカードだった。
「君に、100万円の運用資金を与える。この口座の資金を1年以内に10倍にできたら、君を正式に雇おう」
その言葉に、思わず彼の顔を見た。
三條財閥の投資部門といえば、初任給でも1000万を超えると聞いている。
でも——今、10倍って言った? しかも一年で?
「その……10倍? って……1000万ってことですか?」
「無理だと思うか?」
彼の目が、窓から流れる街の光を背に、静かに私を見ていた。
「思います。……いや、分かりません。正直、私はこれまで失敗しかしてこなかったし……」
口から出たのは、弱音だった。
でも、それが本当のことだから。
「"正直"であることも、強さの一つだ」
言葉の意味はよく分からなかった。けれど、なぜだろう。この人の前では、取り繕うよりも、素直でいるほうがいいと、そう思えてしまう。
「ただし」
彼の声色が、少しだけ低くなった。
「投資先の選定、情報の取得、タイミングの判断——すべて自分で決めろ。俺は一切手を貸さない。代わりに、条件は一つ。君がその"底辺"から"頂点"へ登ろうと本気で思っていること。それだけだ」
私は、息を呑んだ。
その声には、冷たさと熱が同時に宿っていた。見下されているわけでも、甘やかされているわけでもない。まるで、戦場の入り口に立たされているような感覚。
「それができれば、君には"選ばれる資格"がある」
選ばれる? 誰に? どこに?
問いかけは喉まで出たけれど、声にはならなかった。
でも——
確かに、心のどこかが、熱を帯びていた。
この人の言う"世界"を、見てみたい。騙されてばかりの私が、ここでようやく"自分の手で"何かを掴めるかもしれない。
——母のようにはならない。
——誰かに依存して生きるのは、嫌だ。
——自分の力で、這い上がってみせる。
「……やります」
私は、目を逸らさずに言った。
その瞬間、車窓の外に東京タワーが見えた。赤く光る鉄塔が、まるで"証人"のようにそびえ立っていた。
人生の底で差し出された、たった一つの選択肢。
そして私は、そのカードを強く握り直した。
◇ 近くの駅で降ろされた私は、その帰り道、ロールス・ロイスの車内で起きた出来事を何度も思い返していた。夢じゃないよね。夢じゃないよね。
何度も自分に言い聞かせながら、自宅に戻った。
六畳一間のワンルーム。狭くて、古くて、壁には染みがある。さっきまでいた世界とは、まるで違う。
でも、ここが私の現実だ。
スマホで証券サイトを検索し、渡されたカードのIDを入力してログインする。
確かにその口座には"預かり金:¥1,000,000"と表示されていた。
——100万円。
私の口座残高は、マイナス1,042円。
その差は、約100万円。
この数字が、私の人生を変えるかもしれない。
その時、スマホに三條圭からのメッセージが入った。
「明日19時。麻布のカフェ『アリル』にて。君のアドバイザーと引き合わせる。以上。」
淡々とした一文。相変わらず命令口調。でも、そこに一切の"迷い"は感じられなかった。
投資のアドバイザー。証券会社の人? それとも、元ファンドマネージャーとか?
どんな人が来るにせよ、怖気づいている暇はない。
今の私は、もう一度人生をやり直すための、たった一つの選択肢を握ったところなのだから。
窓の外には、東京の夜景がまたたいていた。
私は、ベッドに横になりながら、天井を見つめた。
——明日から、全てが変わる。
——いや、変えてみせる。
詐欺に遭って、騙されて、馬鹿にされて。何度も何度も、打ちのめされてきた。
でも、まだ終わりじゃない。
私には、まだ意地がある。
母のように、誰かに依存して生きるのは嫌だ。自分の力で、自分の足で、立ち上がりたい。
——私は、変わる。
——今度こそ、自分の力で。
そう心に誓って、私は眠りについた。
(つづく)——“仮説が崩れたら即撤退” それは、私がノートに書いた、ルールだった。 しかし、そのルールを守るには、あまりにも心が揺れてしまった。 金曜日、九条のオフィスを訪れた。 コンクリートうちっぱなしのミニマムなその部屋は思ったより整頓されていて、九条の雰囲気に反して几帳面さを感じた。 (この人、意外と真面目なのかな) 本人は部屋に中央にある、使い込まれたル・コルビジェのソファにどかりと腰を落とし、ここが自分の定位置だと言わんばかりにふんぞり返っていた。「さあて、お前の仮説はどうなるかな」 私は対面に置かれたアーロンチェアに座り、スマホでABZフーズの中間決算を見守る。 仮説では30%以上の業績上方修正。 その結果は—— 売上は予想以上に増加。 しかし利益が、市場予想を下回る“微増”に留まった。 宅配アプリの利用者の増加、物価高に伴う単価上昇、ライバルの撤退ニュース——好材料が揃ってたのに何故!? その理由というのが「仕入れコストの上昇」「人件費の圧迫」といった、四季報にない、私が考慮していなかった要素ばかりだった。 結果株価は、購入時から5%マイナスのまま止まっていた。 ——仮説は崩れた。 『下がってる時に売らない』というのは下落中に狼狽売りをしないというルール。 株価が落ち着いている今、自分ルールに従うなら 『仮説が崩れたら即撤退』ということになる。 私はスマホを握る手を震わせながら、売却ボタンを押した。 初の投資結果は500円の損失。 しかしその数字以上に、ショックは大きかった。 「——なんで、あんなに考えたのに」 そうつぶやいた時、速報が飛び込んできた。 【ABZフーズ、競合企業ピナックと経営統合・合併を視野に協議】 次の瞬間、株価が急騰した。マイナスから一転、+12%へ反転する。 「……え? なによそれ……」 売った直後に上昇? 目の前のチャートが信じられなかった。 こんなの、仮説でも何でもない。完全な“想定外”。 だけど—— 「……今買い戻せば、損失を取り戻せるかも!」 それをじっと見ていた九条が、静かに呟く。 「——おい、お前が最初に決めたルール、忘れたのか?」 その言葉に、背筋が冷たくなる。 「お前が今やろうとしてるのは、“
——初めての「投資」を体験した翌朝。 私は、いつものように駅前の売店で焼きそばパンとコーヒーを買い、出勤ラッシュの波に揉まれながら会社の自動ドアをくぐった。 頭の中には、昨晩の九条の声がこだましていた。 ——底辺には底辺の上がり方がある。 言葉にすると短いのに、やけに刺さる。 私のような“持たざる女”にとって、あれは脅しでも慰めでもなく、一つの「現実」だった。 実家も地味な団地、両親も早くに離婚し、母は副業で夜の仕事しながら私を育てた。 奨学金で大学に入り、仕送りのない学生時代もバイトで乗り切った。 だから、就職先が「とりあえず潰れない中小企業」だっただけでも、私は運が良かったのかもしれない。 ただ……九条に言われたように、“見た目”に恵まれているとは自分でも思う。 でも、それに頼って生きる女にはなりたくなかった。 そう思っていた。いや、そう「思おうとしていた」。 それはきっと——母への反発だったのだろう。 でも今はそんな私情よりも、週末のABCフーズの中間決算のほうが心配だ。 昼休みに給湯室に入ると、コーヒーの香りが漂い、いつも通りの昼下がりの静けさがあった。 ——カチッ。 その音に顔を上げると、給湯機の前に派手な女性が立っていた。「天道さん、ここにいたのね」 声の主は、同僚の窪田カヲリ。 インスタのフォロワーは5千超え。Diorの小さなハンドバッグをさりげなく机に置き、ネイルは今季の流行色で塗り上げられている。 そして手首にはさりげなくシャネルの時計、ヒールの裏からのぞくルブタンの濃い赤色が「私は持ってる女」を醸し出している。 その指先で何度も小物をいじって、それをアピールしているようだった。 正直、こういう“承認欲求を全身で着てる女”は苦手だ。 「ねえ、天道さんて……もっと稼ぎたいと思わないの?」 その唐突な問いに、私は思わずお茶を噴きそうになった。 「え?どういう意味( まさかマルチの勧誘じゃないよね?!)」 内心構えた瞬間、彼女は小首をかしげた。「六本木のLUXって知ってる?」「知らない……けど、なんか夜っぽい?」 「そう、いわゆるラウンジ系でさ。客として座るだけで、時給数万円。容姿と愛想があればOLでも、夜だけで結構な稼ぎになるよ」「
目の前には、ノートとペンと、スマホの証券アプリ。 九条に渡された革の手帳の最初のページには、ボールペンで力強くこう書かれていた。 ――「自分のルールを書け。負けたくないなら、まず“|損を減らす設計《リスクヘッジ》”から始めろ。」 そう言われてまず書いたのは—— 『下がってる時に売らない』 ……当たり前過ぎる、我ながらアホっぽいルールだ。 九条をチラッと見ると、身を乗り出してノートを覗き込み、ニヤッと笑った。「ほう、悪くないルールだ」 褒められたのが意外だったが、それ以降はずっと手が止まっていた。 損を減らす? 設計? そもそも、投資にそんなルールがあるなんて初めて聞いた。「考えても分からないか?じゃあまず、1万円だけ何か買ってみろ」 ソファにふんぞり返ったまま、九条が言った。「緊張する必要はねぇ。入門者はとにかく“場数”だ。だが——適当に選ぶなら、今すぐ帰れ」「……はい、真剣に選びます」 預かってるお金とはいえ、今の私にとっては一万円でも大金だ。 息を整え、スマホの証券アプリを開いた。 慣れない指でログインし、「人気銘柄ランキング」へ。「今上がってる株……注目されている銘柄」 つい、検索画面にそう打ち込もうとした時。「——おい、やめろ」 九条の声が低く響いた。「それ、やってる時点でお前は“負け組”だ。『上がってるから買う』は、バカの思考だ」 思わず手が止まる。「どういう……意味ですか?株って結局は人気投票みたいなものですよね」「バカたれ……“上がってる”ってのは、もう他人が仕込んでるってことだ。 つまり、今のお前は“爆発した打ち上げ花火をジャンプして掴みにいこう”としてる。な?バカだろ」「……たしかに」 言い方はキツイが間違ってはいない。「値動きの結果を見て判断するな。“理由”がなけりゃ、選ぶな。銘柄じゃなく“構造”を見ろ」 ていうか構造って何? まるで経済学の教科書をいきなり開かされたような気分だった。「じゃあ……こういうことかな」 私は九条に聞かれないよう、無言のまま有名企業の銘柄を探し始めた。「正直に言ってみろ。いま、“有名”なのを探してただろ」「……はい。やっぱり、それが安心かなって……」 九条は鼻で笑った。「女ってのは、どうしても“ブランド信仰”が抜けねぇん
終えて、私は麻布に向かった。 電車の中で、昨夜のことを何度も思い返していた。100万円という数字。三條圭の冷たい目。 ——夢じゃなかった。 指定された麻布のカフェ『アリル』は、まるで一般人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。 表には真鍮の看板もない。無機質な壁に大きめのドアらしき造作が施されていて、一見カフェだとは分からない。 深呼吸する。 ——大丈夫。私は、変わるって決めたんだ。 中に入れば、漆黒の壁と大理石のカウンター。控えめな照明。並ぶのはスーツの男と、MacBookを開く女性ばかり。値段の書いてないメニュー表。 庶民の私には「場違い」という言葉すら控えめに思える。「九条様がお待ちです」と言われ、奥の個室に通されたとき、私は直感的に理解した。 ここが、異世界の入り口だと。 ◇ 「ああ……やっと来たか。三條の坊ちゃん、ずいぶん気まぐれなことをする」 部屋の奥にいたのは、50代くらいの男だった。 第一印象は——「危険」。 無精ひげに、革ジャン。だがシャツは高級イタリア仕立てで、腕にはロレックス。指には、ミニマルだが重厚なシルバーリング。 アウトローと紳士が、矛盾なく同居している。 座り方にも風格があった。背もたれに深く寄りかかっているのに、どこか隙がない。身体の芯に、緊張が宿っている。 顔には、深い皺が刻まれていた。でも、それは老いではなく、経験の証に見えた。何かを乗り越えてきた人間だけが持つ、重みのある皺。 ——この人、ただ者じゃない。 その空気が、皮膚に刺さるほど強烈だった。 三條圭とは、また違う種類の「怖さ」。圭は氷のような冷たさだったけど、この人は——炎。触れたら、焼かれる。「……あの、九条先生、で……すか?」「そうだよ。美咲ちゃん」 彼は書類を閉じ、私の顔をじっと見た。 その目は、どこまでも冷静で、洞察的だった。まるでCTスキャンのように、私の内側まで見透かしているような。「今度はあんたが新しい犠牲者ってわけ?」「……犠牲者?」「まったく、三條の坊ちゃんの道楽には毎度付き合いきれない。飽きれば捨てる、気まぐれで拾う」 その言葉に、胸がチクリと痛んだ。 ——やっぱり、そうなんだ。私は「拾われた」側。「……」「だがな」 九条が、身を乗り出した。私の顔を近くでまじまじと見つめる。
報酬は三千円。新宿の貸し会議室に午後19時集合。 それは、社会人向け無料セミナーのアルバイトだった。 説明には「就業後に話を聞くだけの簡単な副業体験モニター」と書かれていた。 当然、怪しい。 普通なら、こんな案件には手を出さない。「話を聞くだけで三千円」なんて、裏があるに決まってる。マルチ商法の勧誘か、怪しい投資セミナーか、最悪の場合は詐欺の片棒を担がされるか。 ——でも私はもう、選べる立場じゃなかった。 給与だけでは、もう生活がままならないのだ。昼間の仕事に影響のない時間で、少しでも収入を増やさなければならなかった。 電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。 疲れている。目の下に隈がある。化粧で隠しきれないくらいの。 ——27歳。もうすぐ28歳。 同年代の友達は、結婚したり、昇進したり、海外旅行に行ったりしている。SNSを開けば、キラキラした写真ばかり。 私だけが、取り残されている気がした。 でも、他人を羨んでも仕方ない。今の私にできることは、目の前の三千円を確実に手に入れることだけだ。 会社では毎日、上司の嫌味に耐えている。「天道さん、また間違えてる」「こんな簡単なこともできないの?」——そんな言葉を浴びせられながら、私は愛想笑いを浮かべるしかない。 辞めたい。何度もそう思った。 でも、辞めたところで次がない。転職活動をする余裕もない。貯金はゼロ。いや、マイナスだ。 だから私は今日も、怪しいと分かっていながら、この会場に来てしまった。 ——情けない。本当に、情けない。 心の中で、自分を嘲笑う。でも、笑ったところで現実は変わらない。 ◇ 会場には、スーツ姿のビジネスマン風の男たちが十数人。 私のような「仕事に疲れ果てた末に藁にもすがるような顔をした人」は、ほんの数人だった。 壁際のテーブルにペットボトルの水と資料が並び、前方にはスクリーンと演壇。最前列にはスタッフらしい若い女性が数人いて、どこかで見たことがあるようなモデル風の美人が揃っていた。 ——こういう綺麗どころで釣るのは、マルチやネットワークビジネス系が使う常套手段だ。 私も、見た目で彼女らに負けているとは思わない。 母譲りの目鼻立ちは、よく「綺麗」と言われる。でも、私はその言葉が嫌いだった。母は、その美貌を使って男から金を引き出すよう
「−1,042円」 その数字を、私は三度見した。 マイナス。赤字。 画面の光が、暗い電車の中で私の顔を照らしている。周囲の乗客は、誰も私を見ていない。みんな、自分のスマホに夢中だ。 数日前までは、まだギリギリプラスだったはずだ。確か、2,000円くらいは残っていた。 朝のコンビニで買った108円のおにぎりが、最後の一押しだったのかもしれない。 ツナマヨ。私の好物。それが、口座をマイナスに突き落とした。 笑えない。全然笑えない。 私の名前は天道美咲。 まもなくアラサーに突入する、中小企業につとめるしがない会社員。 朝の通勤電車は、いつものように混んでいた。スーツ姿のサラリーマンたちに押されながら、私は吊り革にしがみついている。 電車の中で項垂れる私の横では、制服姿の女子高生がイヤホンをつけて、スマホでSNSを眺めていた。 画面が、ちらりと見えた。「秒で億り人になれる方法。これが最後の募集」「貯金ゼロだったシンママが副業で月収100万♡」「新NISAで成功! 毎月5万円の配当生活」 派手なサムネイルが、次々とスクロールされていく。 私は思わず目を背けた。胃の奥が、きゅっと締め付けられる。 ——私はそれを、信じた側だった。 ◇ あのときのアカウントは、完璧だった。 アイコンは清楚な女性の横顔。女性限定の副業情報を紹介していて、DMで相談したら、ものすごく丁寧に返してくれた。「最初は自己投資が大事ですよ」 「私も最初は不安でした」 優しい言葉と、成功体験のスクショの山。 信じた。やっと人生が変わると思った。 そして、教材費と称して50万円を振り込んだ。 50万円。私の貯金の、ほとんど全部だった。 送られてきたのは、ネットで拾ったようなPDF資料と、今はもう繋がらないLINEアカウント。 どこかで見たことのある無料noteの内容に、「月収100万」とか「再現性あり!」とか、色だけ変えて上書きしただけのクズ情報。 ——騙された。その事実を認めるまで、一週間かかった。 それでも諦めきれず、次に参加したのが「新NISA活用セミナー」だった。 会場にはスーツ姿の男たちと、明らかに"勧誘されてきた"ような女性たち。 まあ私も、そんなバカな女の一人だったわけだけど。 紹介された投資先は、何をどう見ても新