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第1話:冷酷御曹司の誘い

Author: 月亭脱兎
last update publish date: 2026-08-26 09:35:22

 報酬は三千円。新宿の貸し会議室に午後19時集合。

 それは、社会人向け無料セミナーのアルバイトだった。

 説明には「就業後に話を聞くだけの簡単な副業体験モニター」と書かれていた。

 当然、怪しい。

 普通なら、こんな案件には手を出さない。「話を聞くだけで三千円」なんて、裏があるに決まってる。マルチ商法の勧誘か、怪しい投資セミナーか、最悪の場合は詐欺の片棒を担がされるか。

 ——でも私はもう、選べる立場じゃなかった。

 給与だけでは、もう生活がままならないのだ。昼間の仕事に影響のない時間で、少しでも収入を増やさなければならなかった。

 電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。

 疲れている。目の下に隈がある。化粧で隠しきれないくらいの。

 ——27歳。もうすぐ28歳。

 同年代の友達は、結婚したり、昇進したり、海外旅行に行ったりしている。SNSを開けば、キラキラした写真ばかり。

 私だけが、取り残されている気がした。

 でも、他人を羨んでも仕方ない。今の私にできることは、目の前の三千円を確実に手に入れることだけだ。

 会社では毎日、上司の嫌味に耐えている。「天道さん、また間違えてる」「こんな簡単なこともできないの?」——そんな言葉を浴びせられながら、私は愛想笑いを浮かべるしかない。

 辞めたい。何度もそう思った。

 でも、辞めたところで次がない。転職活動をする余裕もない。貯金はゼロ。いや、マイナスだ。

 だから私は今日も、怪しいと分かっていながら、この会場に来てしまった。

 ——情けない。本当に、情けない。

 心の中で、自分を嘲笑う。でも、笑ったところで現実は変わらない。

     ◇

 会場には、スーツ姿のビジネスマン風の男たちが十数人。

 私のような「仕事に疲れ果てた末に藁にもすがるような顔をした人」は、ほんの数人だった。

 壁際のテーブルにペットボトルの水と資料が並び、前方にはスクリーンと演壇。最前列にはスタッフらしい若い女性が数人いて、どこかで見たことがあるようなモデル風の美人が揃っていた。

 ——こういう綺麗どころで釣るのは、マルチやネットワークビジネス系が使う常套手段だ。

 私も、見た目で彼女らに負けているとは思わない。

 母譲りの目鼻立ちは、よく「綺麗」と言われる。でも、私はその言葉が嫌いだった。母は、その美貌を使って男から金を引き出すような人だったから。

 私は、母のようにはなりたくない。

 だから、化粧は最低限。服装も地味。男の視線を集めるような振る舞いは、意識的に避けてきた。

 ——そのせいで、損をしてきたことも分かっている。

 でも、これだけは譲れなかった。私は、自分の力で生きていきたい。誰かに依存して、媚びを売って、そうやって生きるのは嫌だった。

 だから今、こんな惨めな状況にいるのかもしれないけど。

 私は壁際の席に黙って座った。

 スマホの残高は昨日と変わらず、−1,042円。このバイト代が振り込まれるまでは、電車にも乗れない。

 ——本当に、底辺だ。

 自嘲気味に笑って、スマホをポケットにしまった。

     ◇

「では、お時間になりましたので、三條代表からご講演いただきます」

 司会がそう告げた瞬間、空気が一変した。

 スーツを着た若い男がゆっくりと前に出てきた。無駄のない動作、冴えた目つき。会場の男たちがざわめいた。

 三條圭——SNSでもたまに話題になる、若き財閥グループの御曹司であり副社長。投資事業部門の創業者で、業界では"人を信じないリアリスト"として知られている。

 やや日本人離れした背丈と、彫刻のように整ったその風貌が、財界メディアの表紙を飾っているのを何度か見たことがある。本人で間違いない。

 ——でも、なんでそんな大物が、こんな場所に出てきたのだろう。

 違和感を覚えながらも、私は彼から目が離せなかった。

「本日は、皆さんが期待しているような"儲かる話"はしません。私はそういう話が嫌いなので」

 その声は淡々としていた。でも、その一言で部屋の空気が完全に静まった。

「私が今日話すのは、たった一つの原則です。情報を持つ者が、勝つ。それだけです」

 すると彼は、投資の本質とやらを朗々と語り始めた。

「数字は嘘をつかない。でも人は、数字を"自分の都合のいいように"しか見ない」

 株価を動かすのは企業の業績ではなく"人の心理"であると言い、その根拠を述べ続ける。淡々と、しかし圧倒的に論理的な言葉が並ぶ。

 正直、言っていることは分かるようで、無知な私にはよく分からない。

 けれど——この人の言葉は、嘘じゃない気がした。

 今まで私を騙してきた人たちは、みんな「簡単に稼げる」「誰でもできる」と言っていた。甘い言葉で、私の判断力を奪っていった。

 でも、この人は違う。

 厳しいことを、そのまま言っている。甘い夢なんか見せない。現実を、突きつけている。

 ——だからこそ、信じられる気がした。

     ◇

 講演が終わった後、司会が質疑応答の時間を設けた。

 誰も手を挙げなかった。

 当たり前だ。あんな完璧な論理を前にして、質問できる人なんていない。

 ——でも。

 胸の奥で、何かが疼いた。

 このまま黙って帰ったら、私は一生「聞くだけの人」だ。何も変わらない。何も掴めない。

 また明日も、上司に怒鳴られて、借金の返済に追われて、狭い部屋で一人で眠る。

 ——それでいいの?

 心の中の声が、問いかけてきた。

 私の口が、勝手に開いた。

「すみません。私、少しだけ……いいですか?」

 会場がざわついた。私は、自分の声が震えているのが分かった。

 何やってるんだ、私。こんな場所で目立つなんて、馬鹿じゃないの。

 でも、止められなかった。

「その、情報を持つ者が勝つって……それって、結局、"知ってる人だけが得をする"ってことですよね? じゃあ、何も知らない私みたいな人間は、最初から負けが決まってるんですか?」

 質問というより、もはや叫びだった。

 でも、それが今の私の、本音だった。

 私はずっと、「知らない側」だった。詐欺に遭ったのも、騙されたのも、全部「知らなかった」から。情報を持っている人間に、いいように利用されてきた。

 ——それが、悔しかった。

 三條圭は、私をじっと見た。そして、口の端をほんのわずかに上げた。

「君は負ける側なのかな?」

「はい……でも、負けっぱなしは嫌です」

 言葉が、勝手に出てきた。

「それで、君はどうしたい?」

「何を"私が知らない"のかを"知りたい"です」

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

「……面白いね。君のような人間が、最も大きな利益を得る可能性がある」

「……は?」

 急に何を言い出すんだ、この人は。

「無知であることは、罪に等しい。ただし、己の無知を知った者には、選択肢がある」

「……それが見えるなら、苦労はしませんよ」

「ほう、なら見せてやろうか?」

「え……?」

「彼女を後で、私のところへ案内してくれ」

 三條圭は、近くにいた秘書らしき男性にそう声をかけると、軽く会釈をして会場を後にした。

 ——何が、起きたの?

 頭が、真っ白になった。

     ◇

 そして今、私は彼のロールス・ロイスの後部座席に並んで座っている。

 現実感が、ない。

 深く沈み込むようなレザーシート。無音に近い走行音。香水ではない、革と木材の香り。この車には、日常の"雑音"というものが存在していなかった。

 窓の外には、東京の夜景が流れている。タワーマンションの灯り、ネオン、すれ違う高級外車。

 そんな光景が、まるでスクリーンのように車窓を過ぎていく。

 言葉が出なかった。この空間は、自分とは無関係だった世界。

 私はずっと、外から見る側だった。成功者のきらびやかな世界をスマホで眺めては、「自分には関係ない」と、現実を閉じていた。

 そう、この車窓を通り過ぎていく、雑踏の光のひとつでしかなかった。

 でも今、それを眺める"側"に、自分がいる。

 それがたとえ、一瞬の夢だとしても。

「緊張しているのか?」

 隣の席から、穏やかな声が落ちた。

「……そりゃ、まあ」

 正直すぎたかもしれない。でも、嘘はつけなかった。

 私は昔から、嘘が下手だ。顔に出る。声に出る。だから、取り繕うことを諦めた。

 どうせバレるなら、最初から正直でいたほうがいい。

 彼は、小さく笑った。

「いい反応だ。大抵の人間は、こういう場で取り繕おうとする」

 取り繕う余裕なんて、私にはなかった。スマホのバッテリーも、口座残高も、今にも尽きようとしている。いや、残高はすでにマイナスだ。

 三條圭はスーツの内ポケットから、黒革の封筒を取り出した。しっとりとした手の動き。すべてが無駄なく、計算されているように見えた。

 その中から、一枚のカードを取り出し、私に手渡した。

 それは、彼の財閥が運営する証券会社のメンバーカードだった。

「君に、100万円の運用資金を与える。この口座の資金を1年以内に10倍にできたら、君を正式に雇おう」

 その言葉に、思わず彼の顔を見た。

 三條財閥の投資部門といえば、初任給でも1000万を超えると聞いている。

 でも——今、10倍って言った? しかも一年で?

「その……10倍? って……1000万ってことですか?」

「無理だと思うか?」

 彼の目が、窓から流れる街の光を背に、静かに私を見ていた。

「思います。……いや、分かりません。正直、私はこれまで失敗しかしてこなかったし……」

 口から出たのは、弱音だった。

 でも、それが本当のことだから。

「"正直"であることも、強さの一つだ」

 言葉の意味はよく分からなかった。けれど、なぜだろう。この人の前では、取り繕うよりも、素直でいるほうがいいと、そう思えてしまう。

「ただし」

 彼の声色が、少しだけ低くなった。

「投資先の選定、情報の取得、タイミングの判断——すべて自分で決めろ。俺は一切手を貸さない。代わりに、条件は一つ。君がその"底辺"から"頂点"へ登ろうと本気で思っていること。それだけだ」

 私は、息を呑んだ。

 その声には、冷たさと熱が同時に宿っていた。見下されているわけでも、甘やかされているわけでもない。まるで、戦場の入り口に立たされているような感覚。

「それができれば、君には"選ばれる資格"がある」

 選ばれる? 誰に? どこに?

 問いかけは喉まで出たけれど、声にはならなかった。

 でも——

 確かに、心のどこかが、熱を帯びていた。

 この人の言う"世界"を、見てみたい。騙されてばかりの私が、ここでようやく"自分の手で"何かを掴めるかもしれない。

 ——母のようにはならない。

 ——誰かに依存して生きるのは、嫌だ。

 ——自分の力で、這い上がってみせる。

「……やります」

 私は、目を逸らさずに言った。

 その瞬間、車窓の外に東京タワーが見えた。赤く光る鉄塔が、まるで"証人"のようにそびえ立っていた。

 人生の底で差し出された、たった一つの選択肢。

 そして私は、そのカードを強く握り直した。

     ◇

 近くの駅で降ろされた私は、その帰り道、ロールス・ロイスの車内で起きた出来事を何度も思い返していた。

 夢じゃないよね。夢じゃないよね。

 何度も自分に言い聞かせながら、自宅に戻った。

 六畳一間のワンルーム。狭くて、古くて、壁には染みがある。さっきまでいた世界とは、まるで違う。

 でも、ここが私の現実だ。

 スマホで証券サイトを検索し、渡されたカードのIDを入力してログインする。

 確かにその口座には"預かり金:¥1,000,000"と表示されていた。

 ——100万円。

 私の口座残高は、マイナス1,042円。

 その差は、約100万円。

 この数字が、私の人生を変えるかもしれない。

 その時、スマホに三條圭からのメッセージが入った。

「明日19時。麻布のカフェ『アリル』にて。君のアドバイザーと引き合わせる。以上。」

 淡々とした一文。相変わらず命令口調。でも、そこに一切の"迷い"は感じられなかった。

 投資のアドバイザー。証券会社の人? それとも、元ファンドマネージャーとか?

 どんな人が来るにせよ、怖気づいている暇はない。

 今の私は、もう一度人生をやり直すための、たった一つの選択肢を握ったところなのだから。

 窓の外には、東京の夜景がまたたいていた。

 私は、ベッドに横になりながら、天井を見つめた。

 ——明日から、全てが変わる。

 ——いや、変えてみせる。

 詐欺に遭って、騙されて、馬鹿にされて。何度も何度も、打ちのめされてきた。

 でも、まだ終わりじゃない。

 私には、まだ意地がある。

 母のように、誰かに依存して生きるのは嫌だ。自分の力で、自分の足で、立ち上がりたい。

 ——私は、変わる。

 ——今度こそ、自分の力で。

 そう心に誓って、私は眠りについた。

 (つづく)

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  • シンデレラ証券口座 ~私と御曹司と恋の利回り~   プロローグ:口座残高 -1,042円

     「−1,042円」 その数字を、私は三度見した。 マイナス。赤字。 画面の光が、暗い電車の中で私の顔を照らしている。周囲の乗客は、誰も私を見ていない。みんな、自分のスマホに夢中だ。 数日前までは、まだギリギリプラスだったはずだ。確か、2,000円くらいは残っていた。 朝のコンビニで買った108円のおにぎりが、最後の一押しだったのかもしれない。 ツナマヨ。私の好物。それが、口座をマイナスに突き落とした。 笑えない。全然笑えない。 私の名前は天道美咲。 まもなくアラサーに突入する、中小企業につとめるしがない会社員。 朝の通勤電車は、いつものように混んでいた。スーツ姿のサラリーマンたちに押されながら、私は吊り革にしがみついている。 電車の中で項垂れる私の横では、制服姿の女子高生がイヤホンをつけて、スマホでSNSを眺めていた。 画面が、ちらりと見えた。「秒で億り人になれる方法。これが最後の募集」「貯金ゼロだったシンママが副業で月収100万♡」「新NISAで成功! 毎月5万円の配当生活」 派手なサムネイルが、次々とスクロールされていく。 私は思わず目を背けた。胃の奥が、きゅっと締め付けられる。 ——私はそれを、信じた側だった。      ◇  あのときのアカウントは、完璧だった。 アイコンは清楚な女性の横顔。女性限定の副業情報を紹介していて、DMで相談したら、ものすごく丁寧に返してくれた。「最初は自己投資が大事ですよ」 「私も最初は不安でした」 優しい言葉と、成功体験のスクショの山。 信じた。やっと人生が変わると思った。 そして、教材費と称して50万円を振り込んだ。 50万円。私の貯金の、ほとんど全部だった。 送られてきたのは、ネットで拾ったようなPDF資料と、今はもう繋がらないLINEアカウント。 どこかで見たことのある無料noteの内容に、「月収100万」とか「再現性あり!」とか、色だけ変えて上書きしただけのクズ情報。 ——騙された。その事実を認めるまで、一週間かかった。 それでも諦めきれず、次に参加したのが「新NISA活用セミナー」だった。 会場にはスーツ姿の男たちと、明らかに"勧誘されてきた"ような女性たち。 まあ私も、そんなバカな女の一人だったわけだけど。 紹介された投資先は、何をどう見ても新

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