เข้าสู่ระบบそれは、社会人向け無料セミナーのアルバイトだった。
説明には「就業後に話を聞くだけの簡単な副業体験モニター」と書かれていた。
当然、怪しい。
普通なら、こんな案件には手を出さない。「話を聞くだけで三千円」なんて、裏があるに決まってる。マルチ商法の勧誘か、怪しい投資セミナーか、最悪の場合は詐欺の片棒を担がされるか。
——でも私はもう、選べる立場じゃなかった。
給与だけでは、もう生活がままならないのだ。昼間の仕事に影響のない時間で、少しでも収入を増やさなければならなかった。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。
疲れている。目の下に隈がある。化粧で隠しきれないくらいの。
——27歳。もうすぐ28歳。
同年代の友達は、結婚したり、昇進したり、海外旅行に行ったりしている。SNSを開けば、キラキラした写真ばかり。
私だけが、取り残されている気がした。
でも、他人を羨んでも仕方ない。今の私にできることは、目の前の三千円を確実に手に入れることだけだ。
会社では毎日、上司の嫌味に耐えている。「天道さん、また間違えてる」「こんな簡単なこともできないの?」——そんな言葉を浴びせられながら、私は愛想笑いを浮かべるしかない。
辞めたい。何度もそう思った。
でも、辞めたところで次がない。転職活動をする余裕もない。貯金はゼロ。いや、マイナスだ。
だから私は今日も、怪しいと分かっていながら、この会場に来てしまった。
——情けない。本当に、情けない。
心の中で、自分を嘲笑う。でも、笑ったところで現実は変わらない。
◇ 会場には、スーツ姿のビジネスマン風の男たちが十数人。私のような「仕事に疲れ果てた末に藁にもすがるような顔をした人」は、ほんの数人だった。
壁際のテーブルにペットボトルの水と資料が並び、前方にはスクリーンと演壇。最前列にはスタッフらしい若い女性が数人いて、どこかで見たことがあるようなモデル風の美人が揃っていた。
——こういう綺麗どころで釣るのは、マルチやネットワークビジネス系が使う常套手段だ。
私も、見た目で彼女らに負けているとは思わない。
母譲りの目鼻立ちは、よく「綺麗」と言われる。でも、私はその言葉が嫌いだった。母は、その美貌を使って男から金を引き出すような人だったから。
私は、母のようにはなりたくない。
だから、化粧は最低限。服装も地味。男の視線を集めるような振る舞いは、意識的に避けてきた。
——そのせいで、損をしてきたことも分かっている。
でも、これだけは譲れなかった。私は、自分の力で生きていきたい。誰かに依存して、媚びを売って、そうやって生きるのは嫌だった。
だから今、こんな惨めな状況にいるのかもしれないけど。
私は壁際の席に黙って座った。
スマホの残高は昨日と変わらず、−1,042円。このバイト代が振り込まれるまでは、電車にも乗れない。
——本当に、底辺だ。
自嘲気味に笑って、スマホをポケットにしまった。
◇ 「では、お時間になりましたので、三條代表からご講演いただきます」司会がそう告げた瞬間、空気が一変した。
スーツを着た若い男がゆっくりと前に出てきた。無駄のない動作、冴えた目つき。会場の男たちがざわめいた。
三條圭——SNSでもたまに話題になる、若き財閥グループの御曹司であり副社長。投資事業部門の創業者で、業界では"人を信じないリアリスト"として知られている。
やや日本人離れした背丈と、彫刻のように整ったその風貌が、財界メディアの表紙を飾っているのを何度か見たことがある。本人で間違いない。
——でも、なんでそんな大物が、こんな場所に出てきたのだろう。
違和感を覚えながらも、私は彼から目が離せなかった。
「本日は、皆さんが期待しているような"儲かる話"はしません。私はそういう話が嫌いなので」
その声は淡々としていた。でも、その一言で部屋の空気が完全に静まった。
「私が今日話すのは、たった一つの原則です。情報を持つ者が、勝つ。それだけです」
すると彼は、投資の本質とやらを朗々と語り始めた。
「数字は嘘をつかない。でも人は、数字を"自分の都合のいいように"しか見ない」
株価を動かすのは企業の業績ではなく"人の心理"であると言い、その根拠を述べ続ける。淡々と、しかし圧倒的に論理的な言葉が並ぶ。
正直、言っていることは分かるようで、無知な私にはよく分からない。
けれど——この人の言葉は、嘘じゃない気がした。
今まで私を騙してきた人たちは、みんな「簡単に稼げる」「誰でもできる」と言っていた。甘い言葉で、私の判断力を奪っていった。
でも、この人は違う。
厳しいことを、そのまま言っている。甘い夢なんか見せない。現実を、突きつけている。
——だからこそ、信じられる気がした。
◇ 講演が終わった後、司会が質疑応答の時間を設けた。誰も手を挙げなかった。
当たり前だ。あんな完璧な論理を前にして、質問できる人なんていない。
——でも。
胸の奥で、何かが疼いた。
このまま黙って帰ったら、私は一生「聞くだけの人」だ。何も変わらない。何も掴めない。
また明日も、上司に怒鳴られて、借金の返済に追われて、狭い部屋で一人で眠る。
——それでいいの?
心の中の声が、問いかけてきた。
私の口が、勝手に開いた。
「すみません。私、少しだけ……いいですか?」
会場がざわついた。私は、自分の声が震えているのが分かった。
何やってるんだ、私。こんな場所で目立つなんて、馬鹿じゃないの。
でも、止められなかった。
「その、情報を持つ者が勝つって……それって、結局、"知ってる人だけが得をする"ってことですよね? じゃあ、何も知らない私みたいな人間は、最初から負けが決まってるんですか?」
質問というより、もはや叫びだった。
でも、それが今の私の、本音だった。
私はずっと、「知らない側」だった。詐欺に遭ったのも、騙されたのも、全部「知らなかった」から。情報を持っている人間に、いいように利用されてきた。
——それが、悔しかった。
三條圭は、私をじっと見た。そして、口の端をほんのわずかに上げた。
「君は負ける側なのかな?」
「はい……でも、負けっぱなしは嫌です」
言葉が、勝手に出てきた。
「それで、君はどうしたい?」
「何を"私が知らない"のかを"知りたい"です」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「……面白いね。君のような人間が、最も大きな利益を得る可能性がある」
「……は?」
急に何を言い出すんだ、この人は。
「無知であることは、罪に等しい。ただし、己の無知を知った者には、選択肢がある」
「……それが見えるなら、苦労はしませんよ」
「ほう、なら見せてやろうか?」
「え……?」
「彼女を後で、私のところへ案内してくれ」
三條圭は、近くにいた秘書らしき男性にそう声をかけると、軽く会釈をして会場を後にした。
——何が、起きたの?
頭が、真っ白になった。
◇ そして今、私は彼のロールス・ロイスの後部座席に並んで座っている。現実感が、ない。
深く沈み込むようなレザーシート。無音に近い走行音。香水ではない、革と木材の香り。この車には、日常の"雑音"というものが存在していなかった。
窓の外には、東京の夜景が流れている。タワーマンションの灯り、ネオン、すれ違う高級外車。
そんな光景が、まるでスクリーンのように車窓を過ぎていく。
言葉が出なかった。この空間は、自分とは無関係だった世界。
私はずっと、外から見る側だった。成功者のきらびやかな世界をスマホで眺めては、「自分には関係ない」と、現実を閉じていた。
そう、この車窓を通り過ぎていく、雑踏の光のひとつでしかなかった。
でも今、それを眺める"側"に、自分がいる。
それがたとえ、一瞬の夢だとしても。
「緊張しているのか?」
隣の席から、穏やかな声が落ちた。
「……そりゃ、まあ」
正直すぎたかもしれない。でも、嘘はつけなかった。
私は昔から、嘘が下手だ。顔に出る。声に出る。だから、取り繕うことを諦めた。
どうせバレるなら、最初から正直でいたほうがいい。
彼は、小さく笑った。
「いい反応だ。大抵の人間は、こういう場で取り繕おうとする」
取り繕う余裕なんて、私にはなかった。スマホのバッテリーも、口座残高も、今にも尽きようとしている。いや、残高はすでにマイナスだ。
三條圭はスーツの内ポケットから、黒革の封筒を取り出した。しっとりとした手の動き。すべてが無駄なく、計算されているように見えた。
その中から、一枚のカードを取り出し、私に手渡した。
それは、彼の財閥が運営する証券会社のメンバーカードだった。
「君に、100万円の運用資金を与える。この口座の資金を1年以内に10倍にできたら、君を正式に雇おう」
その言葉に、思わず彼の顔を見た。
三條財閥の投資部門といえば、初任給でも1000万を超えると聞いている。
でも——今、10倍って言った? しかも一年で?
「その……10倍? って……1000万ってことですか?」
「無理だと思うか?」
彼の目が、窓から流れる街の光を背に、静かに私を見ていた。
「思います。……いや、分かりません。正直、私はこれまで失敗しかしてこなかったし……」
口から出たのは、弱音だった。
でも、それが本当のことだから。
「"正直"であることも、強さの一つだ」
言葉の意味はよく分からなかった。けれど、なぜだろう。この人の前では、取り繕うよりも、素直でいるほうがいいと、そう思えてしまう。
「ただし」
彼の声色が、少しだけ低くなった。
「投資先の選定、情報の取得、タイミングの判断——すべて自分で決めろ。俺は一切手を貸さない。代わりに、条件は一つ。君がその"底辺"から"頂点"へ登ろうと本気で思っていること。それだけだ」
私は、息を呑んだ。
その声には、冷たさと熱が同時に宿っていた。見下されているわけでも、甘やかされているわけでもない。まるで、戦場の入り口に立たされているような感覚。
「それができれば、君には"選ばれる資格"がある」
選ばれる? 誰に? どこに?
問いかけは喉まで出たけれど、声にはならなかった。
でも——
確かに、心のどこかが、熱を帯びていた。
この人の言う"世界"を、見てみたい。騙されてばかりの私が、ここでようやく"自分の手で"何かを掴めるかもしれない。
——母のようにはならない。
——誰かに依存して生きるのは、嫌だ。
——自分の力で、這い上がってみせる。
「……やります」
私は、目を逸らさずに言った。
その瞬間、車窓の外に東京タワーが見えた。赤く光る鉄塔が、まるで"証人"のようにそびえ立っていた。
人生の底で差し出された、たった一つの選択肢。
そして私は、そのカードを強く握り直した。
◇ 近くの駅で降ろされた私は、その帰り道、ロールス・ロイスの車内で起きた出来事を何度も思い返していた。夢じゃないよね。夢じゃないよね。
何度も自分に言い聞かせながら、自宅に戻った。
六畳一間のワンルーム。狭くて、古くて、壁には染みがある。さっきまでいた世界とは、まるで違う。
でも、ここが私の現実だ。
スマホで証券サイトを検索し、渡されたカードのIDを入力してログインする。
確かにその口座には"預かり金:¥1,000,000"と表示されていた。
——100万円。
私の口座残高は、マイナス1,042円。
その差は、約100万円。
この数字が、私の人生を変えるかもしれない。
その時、スマホに三條圭からのメッセージが入った。
「明日19時。麻布のカフェ『アリル』にて。君のアドバイザーと引き合わせる。以上。」
淡々とした一文。相変わらず命令口調。でも、そこに一切の"迷い"は感じられなかった。
投資のアドバイザー。証券会社の人? それとも、元ファンドマネージャーとか?
どんな人が来るにせよ、怖気づいている暇はない。
今の私は、もう一度人生をやり直すための、たった一つの選択肢を握ったところなのだから。
窓の外には、東京の夜景がまたたいていた。
私は、ベッドに横になりながら、天井を見つめた。
——明日から、全てが変わる。
——いや、変えてみせる。
詐欺に遭って、騙されて、馬鹿にされて。何度も何度も、打ちのめされてきた。
でも、まだ終わりじゃない。
私には、まだ意地がある。
母のように、誰かに依存して生きるのは嫌だ。自分の力で、自分の足で、立ち上がりたい。
——私は、変わる。
——今度こそ、自分の力で。
そう心に誓って、私は眠りについた。
(つづく)土曜日の朝。 目を開けた瞬間、胃の奥が重かった。 眠れなかった。結局、ほとんど。 スマホを手に取る。 昨夜の圭からのメッセージ。 『明日の夜、話がある。19時に、いつもの店で待っている』 九条からのメッセージ。 『大事な話がある。明日、必ず来てくれ』 ——待って。 19時、いつもの店。 20時、九条のオフィス。 あれ、これって微妙にダブルブッキングしてる? 昨夜、返信した時は気づかなかった。頭がぼんやりしていて、確認もせずに、どちらにも『行きます』と送ってしまった。 ——どうしよう。 1時間差。 圭との話が早く終われば、間に合うかもしれない。でも—— 『話がある』 二人とも、同じ言葉を使っていた。 短い話で終わるとは、思えない。 仕事のことを考えれば、九条だ。大富グループへの対策、凛の調査結果——話し合うべきことは山積みだ。 でも—— 副社長室で見た、冷たい目。『天道か。何か用か』という他人行儀な声。 それなのに、向こうから『話がある』と言ってきた。 『もうお前とは関わらない』——そう言われるのかもしれない。 それとも—— いや、期待するな。 まずは圭を優先しよう。 九条には、少し遅れると伝えればいい。 九条にメッセージを送る。 『すみません、少し遅れます。20時半には必ず伺います』 送信。 数分後、返信が来た。 『わかった。無理するな』 いつもより素っ気ない。 ——九条も、何か変だ。 いや、考えすぎだ。きっと。 シャワーを浴びる。着替える。化粧をする。 鏡の中の顔色の悪さを、チークでごまかす。 休日出勤だ。どうせ、見られる相手は限られている。 ◇ 今日もなんとか、仕事を終えた。 土曜は証券市場が閉じているので、株価は公には動かない。 それだけが、唯一の救いだった。 まあ、何も解決はしていないけど。 このまま放置すれば、含み損は週明けには30億に達するかもしれない。 夕方、18時。 タクシーに乗り込んだ。「六本木の——」 行き先を告げようとした瞬間、スマホが鳴った。 圭からだ。「もしもし」『今、どこにいる』 いつもの低い声。でも、どこか——張り詰めている。「タクシーに乗ったところです。これから、いつもの店に——」『店を変える』 ——え?
火曜日、午後2時。 三條グループ本社ビル、28階会議室。 長いテーブルの端に座らされた私を、取締役たちの視線が刺していた。「それで、天道さん。この25億円の含み損について、どうお考えですか」 取締役の一人——名前は覚えていない。五十代くらいの、眼鏡をかけた男性——が、冷たい声で言った。 パサ、パサ。資料をめくる音が、やけに大きく聞こえる。「現在、市場の動向を注視しながら——」「注視? 注視している間に、損失は膨らみ続けていますが」 別の取締役が口を挟む。「素人に600億を任せた結果がこれですか」 ——素人。 分かってる。ついこの間まで、借金を抱えた底辺OLだった。 でも——「三條副社長の強い後押しがあったとはいえ、我々はこの人事に当初から懸念を示していました」「結果的に、その懸念が的中したわけですね」 空調が、低く唸っている。それ以外は、沈黙。 同情ではない。期待でもない。 ——処分を待つ被告を見る、裁判官の目だ。「運用資産の縮小を提案します」 最初に発言した取締役が、書類を閉じた。「現在の600億を、100億まで段階的に縮小。残りは本社の運用部門で管理する」 ——100億。「MISAKIシンデレラファンドは事実上の解体となりますが。天道さんには、部門長など役職を用意しますので、配置転換を——」 ——勝手なことを。原資の200億を600億まで拡大させたのは、私と九条なのに。 ——手柄だけ奪うつもりだ。「お待ちください」 声が出ていた。 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。 取締役たちが、私を見る。「この下落は、大富グループによる意図的な攻撃です。株価操作と風説の流布——明確な市場操作の証拠があります」「証拠?」「はい。空売りの異常な増加、関連銘柄との連動した売り圧力、SNSでの組織的な情報拡散——すべてが連動しています」 昨夜、九条と話し合った内容を、そのまま伝える。 取締役たちの表情が、わずかに変わった。「つまり、我々が撤退すれば——大富グループの思う壺です」「しかし、現実に損失は——」「本当に損失ですか? 今この時点で清算したとしても、300億以上の利益が確定しますけど」「……それは」 発言した取締役が口ごもる。隣の男が、気まずそうに資料をめくり直した。「違いますか? 簡単な算
月曜日の朝。 出社して最初に確認したのは、保有銘柄の株価だった。 画面に表示された数字を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。 ——レヴァンスト、前日比マイナス4.2%。 先週から続いている下落が、止まらない。 原因は分かっている。大富グループの仕掛けだ。 あの手紙が届いてから3日。彼らは宣言通り、動き始めていた。 レヴァンスト株に対する空売りの増加。関連銘柄への売り圧力。SNSでの風説の流布。 一つ一つは小さな動きだ。でも、それが積み重なって——じわじわと、株価を蝕んでいる。 大量にポジションを持っている私のファンドには、それがダイレクトに響く。「天道さん」 白石凛の声がした。振り向くと、彼女が資料を手に立っていた。「含み損、20億円を超えました」 ——20億。「対策は検討されていますか」「……検討中です」「そうですか」 凛の声には、感情がない。責めるでも、同情するでもない。ただ、事実を述べているだけ。「取締役会から、説明を求められています。明日の午後、臨時会議が入りました」「……分かりました」 凛が去っていく。 私は画面を見つめたまま、動けなかった。 ——どうすればいい。 構造を見て戦略を組み立てるのは得意だ。でも、持つ側として資産を守る経験も知識もない。 ——そりゃそうだ。最近まで、借金を抱えた底辺OLだったんだから。 分からない。何も、分からない。 ◇ 昼休み。 食欲がなかった。でも、何か口にしないと倒れそうだった。 コンビニで買ったおにぎりを、給湯室で齧る。味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。 スマホを見る。 九条からの返信は、まだない。あの夜から、ずっと。 ——何かあったのかな。 画面を閉じる。今は、自分のことで精一杯だ。 廊下から、声が聞こえてきた。「天道さん、やばいらしいよ」「20億の含み損だって。素人に600億任せるからだよ」「三條副社長も、見る目なかったね」 ——また、か。 もう慣れた。慣れたはずだ。 おにぎりを半分残して、席に戻った。 ◇ 午後3時半。大引け。 画面を見る。 レヴァンスト、終値でさらにマイナス1.8%。 含み損は、25億円に膨らんでいた。 ——私たちもショートポジションを持つ? 空売りして、下がったところで買い戻せば。
金曜日の夜。 六本木レジェンド倶楽部。 業界パーティの会場は、相変わらず眩しかった。シャンデリアの光が、磨き上げられた床に反射している。シャンパングラスが触れ合う音。低く抑えた笑い声。高級な香水の匂いが、空気に溶けている。 ——また、ここか。 数ヶ月前、初めて圭さんに連れられて来た時のことを思い出す。あの時の私は、何も知らなかった。この世界の構造も、自分の立ち位置も。 今は——少しだけ、見えるようになった。 でも、見えるようになった分だけ、息苦しさも増している。「美咲、大丈夫か」 隣を歩く圭が、小声で聞いてきた。「はい、平気です」 嘘だ。平気じゃない。 この1週間、大富グループの動きを追い続けていた。九条さんからの返信はまだない。白石凛の資料の違和感も、まだ解消できていない。 頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。「顔色が悪い」「……そうですか?」「ああ。無理するな」 圭の声が、いつもより柔らかい。 ——この人は、本当によく見ている。 私の小さな変化を、見逃さない。それが嬉しいような、怖いような。「三條副社長、お久しぶりです」「やあ、ご無沙汰してます」 圭が、近づいてきた男性と握手を交わす。私は一歩下がって、その様子を眺めていた。 こういう場での圭は、いつもと違う。完璧な笑顔。完璧な所作。完璧な会話。 ——仮面だ。 あの笑顔の下に、何があるのか。私には、まだ分からない。 ◇ パーティが始まって1時間。 圭は次々と挨拶に追われ、私は一人でシャンパンを片手に壁際に立っていた。 人の流れを観察する。誰が誰と話しているか。どんな表情で。どんな距離感で。 ——あの二人は、表向きは仲が良さそうだけど、目が笑ってない。 ——あの女性は、あの男性に気があるけど、男性の方は別の誰かを探してる。 ——あの老紳士は、さっきから三回も時計を見た。早く帰りたいんだろう。 こういうことが、自然と目に入ってくる。昔からそうだった。でも、それが「武器」だと言われたのは、九条さんが初めてだ。 その時——「久しぶりだな、天道美咲」 背後から、声がした。 低い声。聞き覚えがある。聞きたくない声。 振り向く前に、分かっていた。 大富龍平《だいとみりゅうへい》。 振り向いた瞬間、彼の顔が視界に入った。 相変わらず、整った顔立ち。
九条のオフィスは、相変わらずだった。 コンクリート打ちっぱなしの壁。使い込まれたル・コルビュジエのソファ。窓際に積まれた資料の山。かすかに漂う煙草の残り香。 1ヶ月ぶりに訪れたこの場所は、何も変わっていない。 ——私だけが、変わってしまったのかもしれない。「よう、久しぶりだな」 九条がソファから立ち上がった。いつものように無精髭を生やし、革ジャンの下には皺だらけのシャツ。だけど腕にはロレックス。このちぐはぐさは、もう見慣れた。「すみません、ご無沙汰してました」「忙しかったんだろ。600億の重さは、俺にも想像がつく」 九条がキッチンに向かう。コーヒーメーカーのスイッチ。カチッ。コポコポと水の音。 私はソファに腰を下ろした。革が軋む。体が沈み込む。 ——ここだと、息ができる。「で、何があった」 九条が振り返らずに言った。コーヒーの香りが、部屋に広がり始めている。「……何も、ないです」「嘘つくな。声でわかる」 ——バレてる。「初の大型投資判断があるんです」 言ってしまうと、肩から力が抜けた。「レヴァンストの追加買い増しを検討してます。でも、市場環境が読めなくて……」 コーヒーカップが、目の前に置かれた。白い湯気が立ち上っている。 九条が向かいのソファにどかりと座る。「見せろ」 私はバッグから資料を取り出した。昨夜まとめた分析レポート。数字とグラフがびっしり並んでいる。 九条がページをめくる。眼鏡をかけていないのに、目を細めて読んでいる。老眼なのかもしれない。聞いたことはないけど。 沈黙が落ちる。 パサ、パサ、パサ。紙をめくる音だけが、部屋に響いている。 その間、私は九条の横顔を見ていた。 皺が増えた。目の下の隈も、前より濃い。 ——何かあったのかな。 聞けない。私は弟子で、彼は師匠だ。「悪くない」 九条が顔を上げた。「え?」「この分析、悪くないって言ってんだ。むしろ、1ヶ月前より格段に良くなってる」 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。「ただ——」 九条が資料の一点を指差す。「ここだ。大富グループの動向を、お前は軽視しすぎてる」「大富……」 その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。 大富龍平。あの六本木のパーティで、私に絡んできた男。 そして、レヴァンストの買収工作を見破った私のせ
朝、目を開けた瞬間から、胃が重かった。 カーテンの隙間から漏れる光が、白すぎる。 スマホを見る。7時12分。アラームの3分前。最近はいつもこうだ。体が勝手に起きる。眠れてないのに、眠れない。 布団から出る。素足に、フローリングの冷たさが沁みる。 ——今日で、ちょうど1ヶ月か。 シャワーを浴びる。お湯の音。ザー、それだけが耳の奥に響いている。 いつもなら何も考えなくていい時間。 でも今日は、考えてしまう。 600億。 その数字が、頭から離れない。 ◇ 三條グループ本社ビル。 エントランスに入った瞬間、空調の冷たい風が顔に当たった。無機質だけど、アロマオイルのようなかすかな匂い。 ヒールの音が、大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。 自分の足音なのに、他人のみたいに聞こえる。 エレベーターホールに向かう。すれ違う社員たちの視線を感じる。見てる。絶対見てる。 ——あれが、財界のシンデレラ。 ——600億任されて、調子に乗ってる。 ——素人のくせに。 何も聞こえてない。でも、そう言われてる気がする。 エレベーターのボタンを押す。ピッ。 沈黙。わずかな空調の匂い。 チン。 扉が開く。 ——良かった、中には誰もいない。 32階のボタンを押す。ピッ。扉が閉まる。シュン。 上昇、足元がふわっとする。エレベーター特有の、こんl感覚が前から苦手だった。 小さな鏡に、自分の顔が映っている。 目の下に、うっすら隈がある。コンシーラーで隠したつもりだった。 ——まあ、いいか。 誰も、そんなところ見てない。みんな、私の顔じゃなくて、600億という数字を見てる。 チン。 扉が開く。32階。 MISAKIシンデレラファンドのオフィス。 一歩、踏み出す。 カーペットが、ヒールの音を吸い込んだ。 ◇「天道さん、おはようございます」 声がした。冷たい声。 振り向くと、白石凛が立っていた。 東大首席。外資系証券出身。私より3歳年下。金融知識では、比べものにならない。 目が合う。合ってしまった。逸らせない。逸らしたら負けだ。負けるわけにはいかない。「おはよう、白石さん」 声が震えてないか。大丈夫だ、たぶん。「今日の日経朝刊、ご覧になりましたか」 凛が新聞を差し出す。その動作が、妙にゆっくりに見えた







